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さて、その仁・義・礼・知・信なる五徳でありますが、論語を何度か読んでみますと、孔子はどうもこの五つの徳目を同列・並列には論じていない。五つが各々バラバラに独立して存在しているとは見ていない。義も、礼も、知も、信も、全て根っこに仁がある!と考えているようなのであります。つまり「仁あっての義、仁あっての礼、仁あっての知、仁あっての信であるぞ!」と述べているのであります。これで又々目からウロコが一枚剥がれました。

よく考えてみればその通りですね。仁がなく義のみが独り歩きすれば「正義の為には手段を選ばず!」となってしまって暴虐無惨を極めることとなる。仁がなく礼のみが独り歩きすれば、実のこもらない上辺だけの虚礼となる。仁がなく知のみが独り歩きすれば、自分さえ良ければ人はどうなろうとかまわない、とする冷酷非情な利己知となってしまう。

仁がなく信のみが独り歩きすれば、オウム真理教のような狂信者の固まりとなる。つまり、徳はすべて「仁ベース」である!!と云うことです。(カクテルを作る要領だ)

・・・・絵に描くと次のようになる。


五徳について、この構図はしっかりと覚えておいてください。ここが解っていないと論語を百遍読んでも、百年勉強してもダメです。活学したとは云えんでしょう。(※90%の人がここで躓づいてしまう)単なるもの知りになるだけであります。

次には中庸であります。中庸と似た言葉に中道というものがあります。中道と云うのは仏教用語でありまして、ともに両極端を戒めた言葉でありますが、若干ニュアンスが違います。
【中庸(儒教)≒中道(仏教)】 南宋の儒者・朱子は、中庸を「不偏不倚(ふへんふい)、過不及なし」と定義しました。つまり「偏るな!出すぎるな!遅れるな!」と云うことです。
ここを以って現代人は中庸のことを、足して二で割る妥協論のように捉えがちですが、そうではない。両方の良い所を取る折衷論に近いけれどももうちょっと奥行きがある。

中庸も文字で説明した方が本来の意味がつかみ易いでしょう。



これで解ったでしょう。つまり中庸とは「相生和合・統一止揚」のことであります。
「Aか、然らずんばBか?」「俺か然らずんばおまえか?」と云った「相剋排他」の考えではダメ!だと言っているのです.『貴方と私で一本の棒を持ち、力を合わせて両者を包摂する新たな道を築きましょう!!』ということであります。これを「相生和合・統一止揚」と申しますが、アレッ?どこかで聞いたような覚えがあるが・・・・?と思うでしょう。そう!これは論理学で云うところの正−反−合なる弁証法と全く同じ。実は、弁証法は中庸の一つの応用なのです。言い方を換えますと「Aの良い所とBの良い所を合わせ持ち、さらにそれらを統一止揚して一層進化させた、ニュートラルなハイブリッド進化論のこと!」これが中庸と云う言葉の持つ本来の意味なのであります.ハイブリッドとは「雑種・混成」と云う意味ですが、「相(そう)生(じょう)和合・統一止揚」と訳したら良いでしょう。

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