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「論語読みの論語知らず」という言葉があります.本質的なことをお留守にして、枝葉末節にばかりこだわるような人、つまり本末転倒しているようなピンボケ人間に向かって発せられる言葉でありまして、決して良い意味に使われるものではありません。私などは、論語に二十年以上も親しんでおりますが、いつまで経っても「論語読みの論語知らず」ピンボケ人間から抜け出せません。否、益々その思いが強くなって来る、と云った方が正しいでしょう。こういう思いは私だけではないようでありまして、論語を永年愛読している人ほど、判で押したように自分のことを「論語読みの論語知らず」と云う。かの安岡正篤先生をして「自分は五才ころから論語の素読をさせられて、空んじる程になったけれども、今こうして振り返ってみると、全くの論語読みの論語知らずであった」と、晩年になってから述懐しておられる。なぜそうなんだろうか?

こんな書物は論語を置いて他にはありません。実はここに論語の持つ魔力と云うか、2500年もの永きに渡って人々を魅きつけてやまない力が秘められている。論語の持つ魔力を分かり易く云うとすれば「強く叩けば強く鳴り、弱く叩けば弱く鳴る。高く叩けば高く鳴り、低く叩けば低く鳴る。深く叩けば深く鳴り、浅く叩けば浅く鳴る」。つまりその時の自分の境地や心境の程度に応じてしか鳴り響いてくれない、全く「貴方次第、貴方任せ」の書であるということです。言い換えますと、自分の境地の進化の度合によって、同じ文章であっても、中味の捉え方が随分違って来ると云うことであります。

例えば、学而第一の冒頭の文章に「子曰わく、学びて時にこれを習う、亦説ばしからずや」。『孔子云う、学んだことを時々おさらい(復習)すると、理解が一層深まって来る。これは何とも嬉しいことではないか。』とあります。これを初めて読んだ時は「なるほどな〜!学びっ放しでは身に付かんもんだな。復習は大事だな!?」ということ位は誰にでも分かる訳ですが、何年かして又この文章を読んでみると、どうもその程度のことを云っているのではなさそうだ!?と云うことに気が付きます。「復習は大切ですよ!」となら、親だって学校の先生だって云えることですから、孔子が云うにしてはチト変だ。孔子は、別の所で「教えありて類なし」『人間は生まれてからの教育によってどうにでもなるものであって、生まれつき上下の種類があるものではない!』と言い切っておりますから、「時に之を習う」を『時々復習する』という解釈では足りない、と云うことが分かります。“継続は力なり!”“習慣は第二の天性”と言いますが、孔子はきっとこのことを述べているのだろう!?と察しがつきます。従って「時に之を習う」は『繰り返し繰り返し実践しておると、いつの間にか習慣となって、フト気が付いた時には、すっかり身についている』これは実に嬉しいものです。いくら頭では理解していても、そのことが無意識のうちに自然体で行動に表われるようでなければ、本当に分かっているとは言えませんからね。

つまり論語とは頭から丸暗記しても何にもならない読み物であります。一つひとつ自分の身近に引き寄せて、自分自身の問題に置き換えて読んでみなければ、面白くも何ともありません。人生経験が深まれば深まる程に、「ああ、孔子はこんなことも述べていてくれたのか!?ここまで言ってくれていたのか!?」となる訳です。これが論語の魔力です。
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